「夜、眠りに就く前に、その日美しいと感じたものを三つ数えてみてください」
人には元来”ネガティビティバイアス”という、不安を強く察知する性質が備わっている。これは狩猟採集の時代において「お花が綺麗だわ」なんてぼんやりしているうちにライオンに食べられてしまわないように身についた、危険を回避するための生存本能。けれど、情報が洪水のように押し寄せる現代社会で、ネガティビティバイアスと適切に付き合うのは難しい。そんな悩みを話したときに教えてもらったのが冒頭の言葉。
「美しさを数える」プロセスの反復は事実、心をポジティブに保つ筋トレとなり、思考や感性を深め、広げてゆくという。美しいものを数えることを習慣化してから確かに気持ちが軽くなったのを感じている。
この連載では、日々の生活の中で私が見つけた「美しいもの」を記録してゆく。あいまいで、多様で、説明のつかない「美しさ」を記録し続けることが、私自身の日々の生きやすさにつながり、仕事の糧になり、そして読んでくれたあなたの「美しさを数える」きっかけになったらいいと思う。そんな思いを胸に、個人的な備忘録をしたためていく。


歯ブラシの居所
コペンハーゲンに住む友人のシェアハウス、年末に住人の一人が実家に帰るというので転がり込んだ。尋ねた彼のほかにはイタリア人の女の子がいたが、パン屋で働く彼女とは生活のリズムがぐるりと違い、時折顔を合わせば挨拶をする程度の仲だった。洗面台には各々の生活用品が並び、私はそのちょうど間に自分の歯ブラシを寝かせて置いた。翌朝、私の歯ブラシが見当たらない。ふと目を向けると透明な私の歯ブラシは、木製のスタンドの中にすっぽりおさまっていた。歯を磨いたあと、そこに戻すのはなんだか忍びなく、ふたたび歯ブラシを寝かせて置いたら、その夜私の歯ブラシは、今度はガラスのカップのなかで心地よさそうにしている。私よりとっくに早く居所を見つけた様子の歯ブラシは、無言のやさしさに抱かれて、わたしがそこにいることまで肯定しているようだった。

近づけば近づくほどに見失う
奈良の翠門亭というホテルに、遠目からひときわ目を引く美しい作品が飾られていた。近づいて正面から撮ろうとすると、自分が映り込んでしまい作品がよく見えない。「これじゃ画が台無し」と、斜めに身を寄せカメラを構え、できるだけ反射の少ない写真を撮った。後に知ったんだけど、これはミカ・タジマの「Art d’Ameublement」というシリーズで、エリック・サティの「家具の音楽 / Musique d’Ameublement」にちなんで名付けられている。彼が提唱した「生活空間に溶け込む音楽」のアート版ということだ。空間を映しこみそっと身をひそめる作品は、故意に近づく人を猛烈な反射で遠ざける。近づけば近づくほどにむしろ見失う、とりとめのない霧みたいに。反射を必死に避けてこれを撮った自分がとても滑稽であるとともに、皆がより写ろうとする世の中で、むしろ捉えきれないということがこんなにも潔く、気持ちのいいものなのかと息を呑む。

地球の蓋を発見した日
街を歩いていたら、ふと地面に落ちている缶の蓋が目に止まった。よく見ると、この蓋の開け方が2ステップの図で簡潔に示されている。地面にぴたりと張り付く蓋は、どう考えても地球の蓋としか思えない。こんな簡単な2ステップで地球を開けることができるのか。蓋を開ければ最後、湾曲したトンネルを重力に導かれごろごろ転がる。たどり着くのは少し手狭なロビーラウンジ。そこを全ての皮切りに、アリの巣のように無数の世界が広がっている。蓋を目の前にそんな世界を想像しているうちに、信号が変わったのか急な人の往来で現実にはっと引き戻され、今はまだその時ではないのだとその場を立ち去った。こっちの世界にもうしばらく、いたいなと思ったから。
PROFILE
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木本梨絵
1992年生まれ。株式会社HARKEN代表。日本の里山に眠る可食植物の研究をする「日本草木研究所」共同代表。自然環境における不動産開発「DAICHI」を運営。自らも事業を営みながら、さまざまな業態開発やイベント、ブランドの企画、アートディレクションを行う。グッドデザイン賞、iF Design Award、日本タイポグラフィ年鑑等受賞。2020年より武蔵野美術大学の非常勤講師を務め、店舗作りにおけるコンセプトメイキングをテーマに教鞭を執っている。